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音読から考える教育の舞台

音読から考える教育の舞台

音読したら国語の授業めっちゃ分かった~!

とは、1日1音読勢の言葉だ。
「当たり前やん」という言葉を飲み込んで、一緒に喜び褒めてあげた。

音読すれば(事前に読んでおけば)授業が分かる

至極当たり前ではあるが、子どもたちにとってその実感は宝となる。

 

その実感を得させるのは誰か。

学校か。否、学校は実感を得る場・機会であり、得させる者ではない。
我が子ひとり「だけ」を見てはくれないのだから。

塾か。否、塾はより実感を得させる側に近いものの、我が子ひとり「だけ」を見ることはできない点で学校と同様である。
個別か集団かを問わず、担当が複数人いる・時限で区切られる時点でそうである。
(相応の対価を支払えば「専属家庭教師」として可能になるでしょう。相応の対価を支払えば)
(専属家庭教師、やります。うめざわの持てるリソース全てをお子さん「だけ」に注ぎます。その代わり、高額です。ご興味のある方はご連絡ください)

わが子ひとり「だけ」を見ることのできる存在はひとつしかない。
実感を得させるために最も熱を上げ、熱を込められる存在は。

である。

 

学校は、塾は、行かせときゃ勝手に勉強して勝手に賢くなる、学ばせるマシン・成績上げ装置ではない。

学びの機会を提供する場であって、もちろんそこで実感を得てほしいと願い行動する人はたくさんいるけれど、
真に「この子に実感を得させようと熱中できる」状態にはなり得ない。

 

音読したら国語が分かる

 

のであれば、音読をさせればよいのだ。
学校の少し先廻りをして、目の前に立たせて読ませれば。
読み間違いを指摘し、言葉を教え、論理に触れさせれば。

逆に言うと、そうすれば学校や塾を最大限に利用して子どもを能力いっぱいまで伸ばしてあげることも叶う、ということ。

 

学校や塾は、子どもの教育の外部委託業者ではない
子どもの教育の核・軸は外部委託できない

子どもの教育の主戦場は家庭である。