loader image

「なぜ〇〇ができないの?」が、対話を壊す ~子どもが黙る「なぜ?」の正体

「なぜ〇〇ができないの?」

という言葉は、しばしば質問風に仕立てた

「〇〇できないのは理解できない」

の意思表示になる。

思い返してほしい。

「なんでこんな問題ができないの?」
「どうしてコレをやらないの?」
というセリフを放ったときの、自分の気持ちを。

どうしてできなかったのか、どうしてやらなかったのか、

その理由を純粋に知りたいというより


できないだなんて信じられない!
やらなかっただなんて理解不能!

なんて気持ちが強かったり、しない?

一歩進んで、言われた場合を想像してみると、

反論できない、というよりも

反論する気力が失せていく

という感じに近いと、僕は思うんだよね。

なんでそんな気持ちになるのか。

この人には、自分を理解するつもりがないんだ

そう感じてしまったから、じゃないかな。
「理解不能」と受け取ってしまった。
たとえ、そんなつもりじゃなかったとしても、
そう受け取ったんだから、こちらのシャッターは下ろすよね。
「ゴメンだけ言ってやり過ごそう」
なんて考えに至っても仕方ない。

「なぜ〇〇をしないの?」は

「理解不能!」を意味する場合がしばしばある。

そうなると、言われた側は心のシャッターを閉じる。
結果、建設的な話もなにもできなくなる。
言われた側から出てくるのは、感情のこもってない謝罪か言い訳がましい屁理屈くらいだ。
「話にならない」と感じるのは、言外にキツい宣言をしてしまっているからだね。
捨て台詞に近いよね。
こうなると、対話とは程遠いよ。

だけど僕は、このセリフを言っちゃダメだ!なんて言いたいんじゃない。
こういう意味を内包してて、
もしくはこういう風に受け取られがちで、
当然の結果として話にならなくなる、
という展開を知っておくことが大事なんだと思ってる。
知ってると、挽回できるじゃない?
「あ、これはそういう意味じゃなくってね」
とひと言、添えられるじゃん。

「あ、そういう意味じゃなくってね、
シンプルに『なんでだろう?』って思ったの

って言うだけで、対話が進むと思わない?
対話が続くのも、
何の言葉も引き出せなくなるのも、
どっちも「構造として当然、そうなるよね」という理解の仕方をすると、

世界の見え方が、めちゃくちゃ変わるよ。