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「使えない東大生」から抜け落ちている視点。

「使えない東大生」から抜け落ちている視点。

年少ムスコ(はやぶさ君)が「次のスイミングのテスト合格したらプラレール買ってあげる」の約束をどうしても理解してくれず

 

きょうしゅいみんぐがんばったもん!!

 

の一点張りで扱いに困っているうめざわです。

 

ぶくぶくぱーはできるようになろうそろそろ!笑

 

 

 

 

 

さて、こないだあるママさんとlineしててふと話題に上ったことですが。

 

 

 

 

 

 

「高学歴なのに使えない」ってどういうコトだろう?と。

 

 

 

 

 

例えば東大生。

 

東大生なんスゲー!何でもできんじゃん!

 

という評価から始まったのに、いざ仕事をさせてみれば「使えない」と。

 

 

 

 

この「使えない」に関して、あまりにも「使う側の問題」には言及されなさすぎるな、と思ったのです。

チェーンソーで木は切れても髪は切りにくいですよね。

どんなによく切れるハサミでも、さすがに木は切りませんよね。

道具には向き不向きがあります。

「チェーンソーならなんでも切れると思ったのに!」なんて言う人がいたら、

いやいやいやいや、ちょっと落ち着こうぜ、となりません?笑

それは道具の問題ではなく、道具を使う人間の方に問題があるとすぐに分かるはず。

 

 

それと同じで、人間にも向き不向きがあります。

その向き不向きを見抜き、人を配置するのはマネジメント側の問題です。

それを脇に置いて「東大生なのに使えない」と切り捨てるのはあまりにも自分勝手だな、と。

「この子にはこの仕事は向かなかった。なら、コレならどうだろう?」と、適性を探してあげるのが上司だと思います。

「適性を探してあげる」というのがしっくりこなければ、

「今ある資源を最も有効に活用できる方法は?事業の効率化と利益の最大化を図るため、人的資源をどこにどれだけ配置するか?」

という問題を考えるのが「マネジメント」じゃないかな、と。

それだけの責任と権限を負っているからこそ、マネージャーの給与は高いわけですし。

 

 

 

とか言ってる僕もマネージャーなので他人事ではないわけですが苦笑

だけど、だからこそ、いかに人に能力を発揮してもらうか、という部分は常に考えていかねばならぬ、と思うわけです。