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「日本語が読める」 ただそれだけで重宝がられる世の中になるかも知れない説

「日本語が読める」 ただそれだけで重宝がられる世の中になるかも知れない説

今さら言及するまでもなく、今の子たちの読解力は崩壊しつつあります(『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』はあまりに有名)。
SNS全盛のこのご時世、文章が読めなくなるのは必然なのかも知れません。

一方で社会の情報化・多様化、テクノロジーの進歩は目覚ましく、文書の価値は増している感があります(文字ベースの情報にアクセスできなきゃ情報化の恩恵は受けられず、多様な権利が明文化されても誤認すれば対決に至り、本が読めなきゃリスキリングなんか夢のまた夢)。

社会からより高度な読む力が要請されている一方、社会が読む力を奪っている。

このまま進むと、一部の読める人と大多数の読めない人に分かれ、一部の読める人から読めない人へ情報を与えるという構図が出来上がりそうな予感がします(すでに士業が行政文書を「読める」ことによりある種の特権を得ていますね。ニュースも同じような形になっている感があり、今では教科書ですらそうなっていると教育現場のあちこちで嘆き節が聞こえてきます)(うめざわ自身、教科書や問題文に出てくる言葉の解説からしているあたり、もれなくワンオブゼムです)。

 

情報ニーズが高まり、情報アクセス可能者が減ると・・・

 

「日本語が読める」 ただそれだけで稼げるようになる予感(急に下世話な話笑)

 

ここで「日本語が読める」とは、単に「文字を音として認識/発音できる」ことを指すのではありません。
文書の主旨と根拠、因果関係や最終的な主張(自分の感情とは無関係に)を過不足なく読み取れることを指します。(言葉尻を捕らえて揚げ足取りの大炎上なんぞ以ての外)
やや自己破壊的な話にもなりますが、みんながみんな読む力があればテキストだけで勉強は成立します(笑)
(そうなれば塾は、今の「点取ってナンボ」という世界観から脱却して古き良き松下村塾的「塾」に立ち戻れるのになぁ、なんて思ったり)

 

個人的な愚痴はさておき、情報があふれかえる世の中で逆に情報へのハードルが上がってしまいそう(上がってしまった?)現代において、

日本語が読めるだけで重宝がられる日が来るのもそう遠くないのではないか?

であれば、もっと国語に振った塾にしてもいいんじゃないか?

なんて思ったり思わなかったり、そんなことをゴチャゴチャ考えながらウサギの背中をなでなでしてます。

 

そんなわけでまずは、

 

 

国語読解講座にお知り合いをお誘いください!