小学生のころ、
「ノートチェック」
なるものがあった。
黒板に書いてあるのを写すだけなのに
なんでチェックしたがるんだ先生は!
って、ずっと疑問だった。
塾講師をやって分かった。
板書をそのまま写せない子、案外多い。
これに対して、僕は2つの見方をしていて。
ひとつ目は、
学力を担保するためには「板書を写すクセ」は身につけておくべし、という視点。
ふたつ目は、
学力を担保するのに、必ずしも「板書を写す」必要はない、という視点。
正反対の見方だけど、僕の中でこれは矛盾なく両立しているのね。
勉強や成績で悩んでいる子の多くは、板書を正確に写せていない。
写す能力があったとしても、取捨選択して(省いて)写し取る。
この行動それ自体は、悪いものではない。
なぜなら、ノートは
「自分が分かればそれでよい」
「自分の理解の助けになればOK」
「忘れたときの復習に十分であれば問題なし」
だから。
つまり、問題は「そこ」にある。
自分にとって理解するのに十分であれば、必ずしもすべてを写し取る必要なんてない。
ただただ書写するマンであれば、「理解するため」「思い出すため」という視点が抜けていれば、
それはノートとしての意味を成していない。
同時に「理解するため」「思い出すため」という視点が抜けていれば、
取捨選択して省いたノートは「ただのサボリ」ということにもなる。
分かりやすく言うと、成績で悩んでいる子には
ノートをキチンと取る子には「考えて、取捨選択して書け」と言うし
ノートをキチンと取っていない子には「まずは、書いてあるのをキチンと書け」と言う。
もちろん、それぞれの特性や性格もあるから、
実際には勉強姿勢・成績・考え方を観察して、分析して、指導しているんだけど。
普段のコミュニケーション然り、答案然り、成績表然り。
はたまたノート然り。
そうか。
あのノートチェックは「指導のヒント集め」だったのか。


