大人も子どもも関係なく、仕事でも家事でも勉強でも同じように
努力を否定されると、その人は壊れます。(ここで「成果ではなく過程を褒めろ→成果の有無に価値はない」は、余りにも極論であることを注記しておきます)
会社における人事的評価として「成果」を求められる(成果を出せる人=貢献度が高い人ほど収入が高くなる)のは当然として(じゃないと成果を出した人が不公平感を感じてモチベーションが下がり、結果として組織の生産性が下がる)、成果の有無・貢献度の高低に関わりなく
そこに至る努力を否定される
と、ドミノのようにその人の中で何かが崩れます。
張り詰めた糸がプチンと切られたように、一撃で虚無感に覆われます。
上の立場に立つ者は、簡単に下の者を無気力化できてしまうのです。
とはいえ、もっと発破をかけたいときもありますよね。
そんなんじゃ足りない、もっとやってほしい
そう思うこともしばしばですよね。
だから普段から、その様を観察して、声かけして、事前に評価基準/価値基準を示しておくべきです。
そうしないと、いやそうする以外に、発破をかける・かけることができる方法が見当たりません。
うめざわの場合、中学生に対しての基準のひとつが
自分に胸を張って「努力した!」と言い切れるかどうか
です。
「努力した!」と自分自身に嘘偽りなく断言できないのであれば「もっとやれよ」案件という認識を、爆上げのたびに共有しています。
テスト後に問います。
「一点のくもりもなく、努力した!と言い切れるのか?」
と。
答えは求めません。
追及もするつもりはありません。
ただ、そう投げかけることで、
あーアカン、あれはアカンかったよな、次はちゃんとせな
と自省と行動改善を促せると思っています。
「過程」「努力」は定性的であるために評価し辛い部分ですが、だからこそ己がこころに問いかけさせることで向上へ向かえると思っています。(努力を定量化する、すなわち「時間」とか「ページ」で評価すると、それはそれで「やったからええやろ」的な態度に発展するのであんまりオススメできません)
一方で、他者に「努力した!」と言い切るには成果=点数/成績アップが不可欠だ、とも思いますし、そういう基準も共有します。
まとめます。(3行で読める系まとめ)
努力を否定すると人間を壊せる。
でも、もっと努力させたい場合がある。
だから事前に評価基準をキチンと共有しておきましょう。
早くストロングゼロ飲んで早く寝ます。
ごきげんよう。