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己と同じ轍は踏ませまいとするならば

己と同じ轍は踏ませまいとするならば

人間はあまりにも愚かで、身を以て経験せねば実感はできない。

後悔

屈辱

を我が身で感じなければ、真に反省はできない。(例:何回言われてもくつ下を裏返しで洗濯に出すうめざわは、自分で自分のくつ下を干して「あぁん?なんやこれうっとしい・・・あぁ、俺か」と感じることで裏返さずに出すようになる)

 

だが一方で、そうならないようにと先達がしてくれた忠告が身を助けることもある。

あの時こう言われたからと何気なく実践していたら、ふと気が付いたらすんでの所で助かった、なんてこともしばしばだ。(例:「車間は空けときや、何かあった時もブレーキ間に合うから。車間ギュウギュウはアカンで、マジで事故ってからじゃ遅いから」と教習所で習って以来、めっちゃ車間に余裕を持たすうめざわは何度、危うい状況を回避したか)

 

自分と同じ轍を踏ませない、踏ませたくない

そんな思いから出る言葉は、現に人を助ける。

 

だが、人はやはり愚かで、己の体験を経てようやく真に分かる、なんてことも多い。そんなことの方が多いのかも知れない。むしろ経験してもなお、喉元さえ過ぎてしまえば熱さなんぞ忘れてしまうこともありさえする。(例:めっちゃ調子悪いときに薬がどこにあるか分からんから薬箱をひっくり返してやっと痛み止め見つけた時に「ちゃんと薬の場所覚えとこ」って思ったけど、やっぱり忘れる)

 

だから我々大人は、子どもたちにとっての先達は、言葉を尽くさねばならない。

「まぁた同じこと言ってるよw」と思われるくらい、いや、思われてもなお、言い尽くさねばならない。

そうしてやっと「そんなもん、なのか」と、相手の価値観のひとつとして落とし込むことができる。(例:我が子がひとりで歩くようになってからずっと「お外では手ぇ繋ぐよ!」って言い続けてきたから小学生になっても未だに自然と手を繋いでくる。ちょっと「もうええやろ流石に」って思ってる)

 

 

【愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ】

かのドイツ帝国で鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクの言葉だ。

英文では

Fools say they learn from experience; I prefer to learn from the experience of others.(アホは(自分の)経験から学ぶらしいやん。まぁワイは他人の経験から学ぶ方がええと思うんやけど)

であり、広く知られる日本語訳と比べて、「歴史」の部分が「the experience of others = 他者の経験」と表現されているのは分かりやすい。

 

 

僕ら人間は往々にして前者であるが、言葉を尽くしてもらうことで、またその言葉や行動の向こう側にある熱意を感じ取ることで後者の姿勢に近付ける。他人の忠告に耳を貸す。

子どもとなればなおのこと、である。

 

大切な我が子を賢者たらしめるのは、親である我々の言葉である。

己と同じ轍は踏ませまいとするならば、我々は言葉の数、言葉の量、言葉の頻度に妥協を挟んでなどいられない。